性別を知ると安心するのはなぜだろう
見知らぬ人と2人きりで会う約束をすることがある。
共通の知人もいない、本当に知らない人。
今日も見知らぬ人と待ち合わせ、男装バーに行ってきた。
待ち合わせた相手の本名も年齢も(当然顔も)知らない。
ただ性別が男だということだけわかっていた。
男だということを知ったとき、なぜかすごく安心した。
それは相手が男だからではない。
女でも安心したと思う。
「性別を知った」ことに安心したのだ。
なぜ性別を知ると安心できるのだろう。
見知らぬ人と2人で会う約束は、今回以外に3回したことがある。
1回目は起業家だった。
大学1年生のとき、社会問題に興味があれば一緒に話しましょうと言われ、会いにいった。
理由はもちろん、社会問題に興味があったからだ。
事前に教えてもらった情報は、本名と電話番号とメールアドレスだった。
本名から、性別はたぶん男だろうと思った。
実際、男だった。
2回目に会ったのは忍者好きな女の子。
私が忍者好きだということを知り、会いたいと言われた。
忍者友達ができたらいいなと思い、会いに行った。
こちらのケースは、本名は知らなかったけれど、事前のメッセージのやりとりで、性別はなんとなく想像できた。
3回目の相手は正体不明の男の人。
仮名から、性別はたぶん男だと思った。
一緒に面白いことをするための話し合いが目的で会いに行った。
名前を知ることより、名前から性別がわかることのほうが重要だった。
なぜだろう。
別に相手の性別が何であろうと会うことには変わりないし、
相手の性別を事前に知ることで何かが変わるわけでもない。
それでも、見知らぬ人に2人で会うことになったとき、「性別」を知ると安心するということは、自分にとって「性別」は相手の持っている様々な情報の中で重要な要素なんだなと思い知らされる。
そんな自分が少し悔しいけれど、実際そうなんだから仕方ない。
気づけただけ、良かった。
ではまた!
きゅうり(矢野友理)