「(気が利く)女の子がほしかった」
仕事で会った人が言っていた。
「女の子がほしかった」
「娘さん、いらっしゃらないんですね」
とりあえず反応してみた。
相手はこう語った。
「そうなの。女の子は気が利くでしょ?猫でもメスのほうが気が利くのよ。人間も猫も、女の子は男の子より気が利くからいいの」
立場上、「そうですね」と相槌を打つべきところだが、言うのは憚られた。
少し顔が引きつっていたかもしれないが、笑顔でにこにこしていた。
代わりに先輩が「そうですね」と言ってくれた。
疑問が残る。
「女の子がほしかった」と言ったのはなぜなのか。
話を聞く限り、「女の子がほしかった」のではなく、「気が利く子がほしかった」のだと思えてならない。
さて、望み通り女の子が生まれてきたとする。
その女の子は、女として生まれてきたというだけで、「気が利く」ことを期待される存在である。
誰かに何かを期待するということは、誰かを「期待される存在」にしているということである。
私は自分が「期待される存在」になると、嬉しさよりも重荷だと感じることが多い。
だからあまり期待しない。
誰かに重荷を背負わせないように。
期待しても、期待に応えてくれるかどうかはわからない。
裏切られることもある。
期待しなければ裏切られることもない。
性別に何かを期待している人は、その期待が裏切られたら、どのように感じ、どのような反応をするのだろう。
「女=気が利く」という図式は、その人の思い込み。
当然のことだけれど、気が利く男もいるし、気が利かない女もいる。
ではまた!
きゅうり(矢野友理)