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日常の考察

オリンピックは何を競っているのか?

もうすぐオリンピックが始まりますね。コロナが収束していない状態での開催には不安が尽きませんが、スポーツ自体に罪はないので、開催されるからには楽しみたいと思います。

 

なお、先週もブログで書いたとおり、私はオリンピック開催には反対です。

※先週のブログ→コロナ感染から8週間が経過しました(症状とオリンピックについて)

 

さて、今回は「オリンピックは何を競っているのか」というテーマで書いていきます。(コロナは関係ない内容です。)

 

当然、スポーツなので「人間の運動能力」を競っている側面が大きいことは間違いないのですが、必ずしも「順位/結果の差=運動能力の差」とは言い切れません。運動能力の差”だけ”が順位/結果に影響を与えるのではなく、たとえばメンタルだったり、天候だったり、運だったり、様々な要素が絡み合った上での順位/結果だと思います。

 

そして、スポーツの結果に影響を与える要素の一つに「モノの性能」があります。これについて掘り下げていきたいのですが、私が以前読んだ本、『ヤマザキマリ対談集』の中で、ヤマザキマリさんが養老孟司さんと次のような対談をしている場面がありました。

 

 ヤマザキ ローマと東京でオリンピック史上初のマラソン連覇を成し遂げたアベベは「お腹が空いたから、あそこの茂みまで果物を採りに行かなくちゃ」と、普段から何気なく50キロ、60キロ走っていたら速くなったそうです。

 

養老 それが生きているということだよね。でも都会にいると食べ物は冷蔵庫に入っているし、なければ買いに行けばいいとみんな思っている。日常の中に組み込まれた必然として体を動かすということがほとんどない。それをジョギングなんかしているから、「勘弁してくれよ」となるわけです。100メートル競走とか、バカじゃないかと思いますよ。フライングで失格して泣いている選手とかいるけど、泣くなよ、たかが100メートル走るのに。

 

ヤマザキ わずかな距離をたった0.0何秒の差を必死に競うというのは、子どものときからまったく理解できませんでした。何かあったときに誰よりも速く逃げられるという素晴らしい特技があるんだから、人間の定めたルールに則ったわずかな差異で悔しがったり泣いたりしなくてもいいじゃないって思ってました。

 

養老 この前、本当に嫌だなと思ったのは、陸上のグラウンドをポリウレタンの二重構造にしたらすごく速く走れるというんですけど、それはずるじゃないですか。本当は、アベベみたいに裸足で土の上を走るのが正しいんですよ。

 

ヤマザキ もう人間そのものの運動能力のことは、結果に対してそれほど重要ではなくなりつつあるのかもしれません。先日とあるドキュメンタリー映像でアフリカのマサイ族が皆ナイキのシューズを履いて、踊りで軽々と飛び上がっているのを見て、テクノロジーの進化には誰も抗えないんだなと思いました。

 

 

この対談の内容全てに同意しているわけではないのですが、「陸上のグラウンドをポリウレタンの二重構造にしたらすごく速く走れるというんですけど、それはずるじゃないですか。本当は、アベベみたいに裸足で土の上を走るのが正しいんですよ」という言葉がとても印象的でした。「ずる」とか「正しい」といったことはさておき、「オリンピックは何を競っているのか」を考えるにあたって、この視点は欠かせません。

 

水泳を例に考えると、競技水着は水の抵抗をいかに減らすかが重要です。メーカーはより性能の良い水着を開発するため、改良に改良を重ねています。過去には、 レーザー・レーサーの水着を着用した選手が次々に世界記録を更新し、水着開発競争に一石を投じるという出来事もありました。そして、その水着は着用禁止になりました。かなり話題になったので、ご存知の方も多いと思います。

 

これは「人間の運動能力」より「モノの性能」の比重が大きくなりすぎてしまったことが招いた結果と言えるでしょう。ヤマザキさんの「人間そのものの運動能力のことは、結果に対してそれほど重要ではなくなりつつあるのかもしれません」という言葉にも表れているように、水着に限らず、テクノロジーの進化によって相対的に「人間の運動能力」の比重は小さくなっているのではないでしょうか。

 

もちろん、私がどれだけ性能の優れたモノを使ったところで、性能の劣るモノを使うオリンピック選手には絶対に勝てません。そういう意味では、間違いなく人間の運動能力を競っている側面が大きいです。しかし、オリンピック選手に選ばれるくらい運動能力に秀でた人同士が、ほんの僅かな差を競い合っている時、勝敗の差は何によって生み出されるのかを考えた時、少なくとも、運動能力の差「のみ」ではないだろうと思うのです。

 

そういえば、以前、あるツイートが拡散されていたことを思い出しました。

 

以下、藤原さん(@fj_wr_)がTwitterで2021年3月9日に呟いていた内容です。

 

息子が、クラスの縄跳び名人にいろいろアドバイスしてもらって二重飛びが飛べるようになったことをここでツイートしたら、「昔より縄跳びの性能が上がって、二重飛びが飛べる子が増えているのかもね」と言われたのが気になって、そのクラスの縄跳び名人が使ってる縄跳びのメーカーを調査させたら、早く走れるスポーツシューズでおなじみの「瞬足」性だった。

 

ひとつ800円か~そんなに性能違うのかな~?と思いつつ瞬足縄跳びを与えたら、翌日さっそく息子は二重飛び最高記録を更新して帰ってきた。よい道具はよい結果を与うる…これ自然の摂理なり…

 

今、縄跳び売り場は「二重飛びが飛べる」ことをうたう商品が種類豊富にあって、100均ですら二重飛び特化型縄跳びをラインナップに揃えてる。今までも(安い)二重飛び特化型縄跳びを与えたことがあるが、ここまで効果が出るとは。金を積む価値のある分野だ。たった800円をなぜケチっていたのか。

 

 

このツイートに対し、賛同コメントがたくさんついていました。実際のところ、良い道具があるなら、それを使わない理由はありません。私もテクノロジーの進化によって生み出されたたくさんのモノを使い、メリットを享受しながら生きている人間の1人です。

 

でも、一方で、こう思ってしまう自分もいます。

「自分自身の能力が向上していないのなら、結果が良くなっても意味ないじゃん!」と。

※ツイートの内容を批判する意図はありません

 

いや、もちろん、「意味ない」なんてこと、ないんですよ。それはわかっています。

 

ただ、結果の違いが何によってもたらされたのか(自分の能力が向上したのか、モノの性能が良くなっただけなのか)には自覚的でいたいと思いますし、特にオリンピックのような他人と競い合うケースにおいては、公平性という観点からも、スポーツの意義を考える上でも、この点は考慮が必要です。

 

考慮されていないと言いたいのではなく、ルールや制約は設けられていますので、現状でも考慮はされているのですが、全員が“完全に”同じ条件で競い合うことは不可能である以上、オリンピックは、モノの性能に限らず、「何を競っているのか」という競技の本質について考える良い機会になるのではないでしょうか。

 

 

 

オリンピックを目前に、少し思考を巡らせてみましたが、何はともあれ、コロナが少しでも早く収束することを祈るばかりです。

 

ではまた!

 

きゅうり(矢野友理)