微男微女

日常の考察

いつかの「Xジェンダー」座談会

(2015/4/3のブログ)

 

先日、人に出会うとまず「性別」を探してしまうという話を書いた。
「私たちは常に性別を認識している」

http://kyuuchan.hatenablog.com/entry/2015/06/13/171900

 

「性別」は「男」と「女」?
「男か女かわからない人」はどっち?

 

生まれつきの体の性別である「男」「女」を自覚している人もいる。
生まれつきの体の性別とは反対の性別を自覚している人もいる。
「男」でも「女」でもないセクシュアリティだと自覚している人もいる。

 

男女の二元論にあてはまらないセクシュアリティの人もいるのだ。
それは本人にしかわからない。

 

私は以前、「Xについて話そう」という主旨の座談会に参加したことがある。
そこに参加したメンバーの多くは自らを「Xジェンダー」だと言っていた。
「Xジェンダー」についての説明はWikipediaから引用させてもらうと以下の通りだ。

 

Xジェンダー(X-gender)とは、出生時に割り当てられた女性・男性の性別のいずれでもないという性別の立場をとる人々を指す。女性・男性の性別のいずれでもない性別を区分するかぎりでは、中性というあり方、無性というあり方、両性というあり方、性別という枠組みから脱するというあり方、女性か男性か定まりきらない流動的であるというあり方など人により様々である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/Xジェンダー (2015年4月3日)

 

「見た目で性別を判断してほしくない」
こう言う「Xジェンダー」の人がいた。
気持ちは理解できる。
でも、現実的ではないとも思う。

 

私の頭は(みんなもおそらくそうだと思うのだが)、既に外見で性別を瞬時に判断できるようになっている。
「Xジェンダー」だと言う人に会ったとき、私はその人の体の性別を無意識のうちに感じとっていた。
その上で、「Xジェンダー」だと言われ、「体は男(あるいは女)で、自覚するセクシュアリティはX」である人だと認識したのだ。
外見で性別がわからない場合は、「性別がわからない人」として認識した上で、本人の言うセクシュアリティを尊重する。

 

外見で性別がわかるか否かにかかわらず(つまり、「性別がわからない」ことがわかるということも含めて)、出会ったらまずその人の性別を無意識のうちに感じとっている。
見た目で性別を判断してほしくない、という意見。
これに対して、勝手に性別を決めつけて、それを前提に接するということはしないようにすることはできる。
でも、見た瞬間に性別を感じとってしまうこと自体はどうにもならない。

 

私は普段、相手のセクシュアリティを決めつけないように意識している。
「決めつけない」とは?
「本人から直接聞くまではセクシュアリティを特定した形での表現をせず、本人が直接言ったセクシュアリティを尊重して対応する」ということ。

 

心の中では様々なことを考えている。
「この人の性別はたぶん男(あるいは女)だろう」
「生まれつきの体の性別は何だろう」
「自分のセクシュアリティをどのように捉えているのだろう」
相手がセクシュアルマイノリティだとわかっている場合は特に深く考えてしまう。

 

「体は男。トランスジェンダーだから女として接してほしい」
相手がこう言うのであれば、「この人は、体は男だけど、女として接するべき人」であると記憶する。
体が男であるという事実を一旦知ってしまったら、それを忘れることはできない
接するときにわざわざ男であることを意識するわけではないが、知っていることを前提に接することになる。

 

何度も会って話しているうちに、セクシュアリティを特に意識することがなくなったとする。
それはただ「慣れた」というだけである。
「体は男だけど、女として接するべき人」だということが変わったわけではない。

 

誤解のないよう一応言っておくが、「女として接する」というのは、いわゆる「女らしさ」を押し付けるというものではない。
(そもそも「女らしさ」ってなんだっけ)


ではまた!

 

きゅうり(矢野友理)