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日常の考察

仕事で「察してよ」をやってしまっていた

「察してよ」は駄目ですよね。私もそう思っているつもりでした。「口で言わなきゃわからない」「伝えたいことがあるなら、ちゃんと言葉で説明しよう」と。でも、実は自分が「察してよ」をやってしまっていることに最近気づかされました。しかもプライベートではなく、仕事で。

 

「察してよ」というセリフを耳にするのは、大抵プライベートです。特に家族や恋人の間で言われることが多いと思います。それは、関係性が親密であるほど「暗黙の了解」が増え、言わなくてもわかると思われたり、状況を見れば何が言いたいのかわかると思われたりして、相手の「察する」能力に期待してしまうからでしょう。

 

でも、あたり前ですが、自分の考えは自分にしかわかりません。言葉でちゃんと伝えなければ、伝わらないものです。仮に相手が「察して」くれたとしても、その「察した」内容が自分の期待している通りのこととは限りません。あくまで「察した」ことに過ぎないからです。そのため、基本的に「察してよ」は自分にとっても相手にとっても良くないものだと思っており、私は言わないようにしています。仕事ではもちろんのこと、プライベートでも「察してよ」と言ったことはおそらくないと思います。

 

そう思っていたのですが……まさかのプライベートではなく、仕事で「察してよ」をやってしまっているというとんでもない事実に気づかされました。


さすがに仕事で「察してよ」と言う人はいないと思いますし、私も当然そんなことは言いません。だからこそ”やってしまっている”という表現にしているのですが、どういうことかというと、「それって実質的に『察してよ』って言っているのと同じだよね」ということをしてしまっていたということです。

 

たとえば、皆さんも心当たりがないか自身の行動を振り返ってみてほしいのですが、「こういう背景があって、ゆえに、こういうお願いをしています」とは言わずに「これお願いします」で済ませたり、「こういう経緯や事情があって、こういう結論になりました」とは言わずに「結論これです」で済ませたり。そういうことをしていないでしょうか。もししていたとしたら、危険です。


その省略した部分は相手に伝わっていないので、高確率で誤解を招いたり、確認のための追加のやりとりが発生したりします。それは、本来きちんと説明していれば発生しなかったことです。「察してよ」と思って省略したわけではないにしても、相手に「ちゃんと言ってくれなきゃわからないよ」と思わせてしまっているという意味で、「察してよ」と同じなのです。

 

もちろん、説明の省略が完全に悪だと言うつもりはありません。所属する組織や相手にもよっても、その時々の状況によっても、ベストなやり方というのは変わってくると思います。また、「察し」が完全になくなったら、それはそれで不都合が生じてしまうこともあると思うので、最低限の「察し」は必要なのかもしれません。それでも、やはり相手の「察し」に期待することは、基本的には身勝手なことだと思っておいた方が良いでしょう。


そのため、私は最近、説明は丁寧すぎるくらいがちょうどいい、共有はしすぎるくらいがちょうどいい、と自分に言い聞かせながら仕事をしています。

 

「社会人7年目にして、今更?」と思われるかもしれませんが、私より社会人経験が長い人も短い人も、この4月に社会人になったばかり人も、社会人ではない人も、振り返ってみてほしいです。言わなくてもわかるだろう、とか、言う必要はないだろうと「勝手に」思いこんで省略してしまっていることがあるとしたら、それは「察してよ」をやってしまっている可能性が高いです。省略しなければ、誤解が生じることも、追加の確認のやりとりが発生することもないはずです。

 

というわけで、皆さんも「察してよ」をやってしまわないよう気をつけましょう。

 

ではまた!

 

きゅうり(矢野友理)