微男微女

日常の考察

過去の自分と今の自分は同じ人間なのか

先日、Twitterでこのようなアンケートをとらせていただきました。回答いただいた方、ありがとうございました。

 

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「応援している野球チームの選手全員がライバルチームに行き、ライバルチームの選手全員が応援しているチームに来た場合(つまり選手全員が入れ替わった場合)、応援するチームはどちらですか?(テセウスの船アンケート)

 

この質問に対し、54名の方に回答いただきました。野球に興味がない人が50%なので、実質27名です。回答の内訳は、画像にもありますが、以下の通りです。(野球に興味がない人を除いた割合に計算しなおしています。)

 

元々応援していたチーム:59.2%

元々ライバルだったチーム:22.2%

どちらも応援しない:18.6%

 

注目すべきは、元々応援していたチームを、選手が入れ替わっても変わらず応援し続ける人が6割「しか」いないことです。

 

数字だけ見れば6割は過半数なので多いように感じますが、野球ファンが応援していたチームを応援しなくなるというのは、すごいことです。

 

私は中日ファンなのですが、それは「この選手が所属しているから応援する」というものではありません。所属している選手にかかわらず、中日ファンなのです。そう考えると、応援するチームを変えるというのは相当なことだと思います。

 

でも、一方で「選手全員が入れ替わったら、それはもう別ものだよね」という感覚もわかります。中身が全く違うのに箱だけ同じものを用意されても「いや、それは違うでしょ」と言いたくなります。

 

もちろん、これは極論で、選手全員が一斉に入れ替わるということは、まず起こらないでしょう。でも、一瞬で入れ替わることはなくても、長い時間をかけて入れ替わることはあります。

 

たとえばアイドルグループ。AKB48やモーニング娘。は全員が一斉に卒業することはなくても、時が経つにつれて1人、2人とメンバーが卒業していき、やがて初期とは全然違うメンバーになったグループになっていきます。それでも、AKB48はAKB48ですし、モーニング娘。はモーニング娘。です。

 

野球チームやアイドルグループのように、「入れ替わった後も、入れ替わる前と同じだと言えるのか」というパラドックスは「テセウスの船」として知られています。

 

『100の思考実験』という本の中で、「テセウスの船 何をもって同じとするのか?」というタイトルで説明されているので、以下、まとめてみました。

 

修理を終えたばかりの船、テセウス号を見に行くと、まったく同じに見える船が2つ並んでいる。どちらが本物のテセウス号なのか、質問すると、警備員はこう答えた。

 

「この船を修理し始めると、船体の木材をたくさん取り替える必要が出てきたんです。もちろん、古い木材は全部残しておきましたよ。でも、作業が進むと、結局はほとんど全部取り替えることになってしまって、修理を終えたとき、取り外した古い木材を使い、もう1隻同じ船を造りなおすことにしました。それで2隻になったのです。左側が新しい木材を使って修理したテセウス号で、右側がもとの古い木材を使って復元したテセウス号です。」

 

さて、一体どちらが「テセウスの船」なのでしょうか。

 

「テセウスの船」は、船のパーツを交換し続けて、船の全てが新しいパーツに置き換わった時、その新しい船は元の船と同じだと言えるのか、というパラドックスであり、「同一性の問題」としてよく取り上げられます。

 

「テセウスの船」と同様のことは、野球チームやアイドルグループだけではなく、人間にも起こります。人間の細胞は次々に死んでは新しいものに置き換わりますし、考え方も年月が経てば変わります。思考も記憶も性質も、歳を重ねるにつれて入れ替わっていくのです。そう考えた時、過去の自分と今の自分が同じ人間であると言えるのでしょうか。

 

前置きが長くなりましたが、ここから本題です。「過去の自分と今の自分は同じ人間なのか問題」について考えてみましょう。

 

「細胞が入れ替わっている」というのは、野球チームで言えば選手が入れ替わっているようなものです。野球チームの感覚で言えば、細胞が入れ替わっても「同じ人間だ」となりそうですが、結論から言うと、私は過去の自分と今の自分は違う人間だと思っています。

 

もちろん、細胞が入れ替わったとはいえ、過去の自分があっての今の自分であり、過去の自分が歳を重ねたのが今の自分であり、過去の自分と今の自分は切っても切り離せません。今の自分は、良くも悪くも過去の自分の影響を受けます。過去の自分と今の自分が同じ人間だと考えるからこそ、今の自分は未来の自分に向かって頑張るのです。

 

それは理解しています。でも、これはあくまで私の個人的な感覚ですが、過去の自分は「他人」のような感じがします。どうしても「自分」とは思えないのです。過去の自分を否定したいという意味ではなく、良いことも含めて、過去の自分の出来事は今の自分とは別の、【「過去の自分」という「他人」】がやったことのように感じられるのです。

 

なぜそういう感覚になるのか、私の解釈を説明すると、テセウスの船でいうところの「新しい木材を使って修理したテセウス号」が今の自分です。「もとの古い木材を使って復元したテセウス号」が過去の自分です。

 

テセウス号は2隻存在しています。第三者から見たら「どっちが本物のテセウス号だろう?」「この2隻のテセウス号は同じテセウス号と言えるのだろうか?」と疑問が生じるのはわかります。でも、新しい木材でできたテセウス号の視点では、古い木材でできたテセウス号は「自分とは別の船」です。だって、自分じゃないのだから。当然ですよね。

 

そういうことです。過去の自分は他人、というのはそういうことです。これが私の感覚ですが、皆さんはどうでしょうか。ぜひこの機会に皆さんも考えてみてください。

 

 

ではまた!

 

きゅうり(矢野友理)