微男微女

日常の考察

「同性婚を認めない」人たち

自民党総裁選の候補者の1人である岸田氏が、同性婚について「多様性を認めるということで、議論があってもいいと思うが、まだ認めるところまで私は至っていない」と発言しました。

 

国のトップに立候補する人がこんな発言をしていることに、心の底から呆れました。と同時に、ある印象深い出来事を思い出したので、ブログに書くことにします。

 

岸田氏の発言に対しては、「は!?」と思ったのですが、一般社団法人fair代表理事の松岡宗嗣(@ssimtok)さんがTwitterで

 

「認める」とか「あっていい」とかシンプルに何様だよと。“認めるに至っていない”という根拠はなく、認めたくない一部の人におもねっているだけでしょう。

 

 

そもそもマイノリティの権利が多数派の「許可」によって決められてしまうこと自体に問題があるわけだけど。

 

とコメントされていて、「その通りだ!」と強く共感しました。

 

「は!?」では伝わらないので、松岡さんのようにしっかり言語化しないといけないですね。

 

私なりに感じたことを言語化してみると、まず「多様性を認める」という言葉に違和感を覚えました。多様性というのは認める/認めないではないと思うからです。そもそも人間は多様である、ということが抜け落ちています。

 

そして、松岡さんも問題視しているように、マイノリティの権利は多数派の「許可」を得て認めてもらわなければならないものなのか、という点も引っかかります。上記の「多様性を認める」への違和感にも通じますが、少数派の人(の権利)を「認める」「認めない」という観点で捉えること自体にも、個人的には違和感があります。

 

さらに、こういう発言ができてしまうのは、自分は絶対的に多数派に属していて、自分たち多数派が少数派を認めるか認めないか決めることができると信じているからだと思います。誰しも、ある側面では多数派でも、別の側面では少数派になり得ます。また、環境(時代や場所も含む)が変わることで、多数派から少数派になることもあります。

 

自分は他人(の権利)をジャッジする立場にあると思っている傲慢さと、自分は絶対的に多数派であると信じて疑わない、ある種の“ピュアさ”から、こういった発言ができてしまうんだろうなと思いました。

 

まとめると、ポイントは以下3点です。

・「多様性を認める」と言っているが、そもそも人間は多様である

・多数派が少数派の権利に「許可」を与えるかどうか(認めるかどうか)決める、ということ自体がおかしい

・絶対的に多数派に属している人などいない

 

岸田氏の発言については以上ですが、今回の岸田氏の発言と、それに関連する様々な意見を読んで、数年前のある出来事を思い出しました。

 

何年も前のことなので、記憶が曖昧なところもありますが、覚えている範囲で書こうと思います。

 

どんな出来事かというと、ある日、私は“頭が良くて冷静に話し合える”人と会話することになりました。その人をAさんとしましょう。私はAさんから、同性愛についてアレコレと言われました。全部が全部というわけではありませんが、否定的な内容が多かったと記憶しています。

 

その中でも特に記憶に残っているのが、「マイノリティが権利を主張するのが嫌だ」という言葉です。

 

同性愛者が存在するのはいいけど、声をあげず、ひっそりと暮らしていてほしい。

権利を主張されるのは嫌だ。

マイノリティの声が大きくなるのは、恐怖だ。

 

 

こんな感じのことを言われました。

 

どういう文脈でこんなことを言われたのか、実はあまり覚えていないのですが、内容からして、おそらく同性婚に反対する理由を聞かされている最中だったのではないかと思います。

 

率直に言うと、めちゃくちゃ不快でした。悲しい気持ちにもなりました。

 

でも、納得している自分もいました。納得しているというのは、Aさんの主張に対してではありません。「道理で、わかりあえないはずだ」という納得感です。

 

この話よりも前に、Aさんは同性愛についてアレコレとAさんなりの理屈を並べていましたが、この発言を聞いて、結局のところ、理屈じゃないんだな、と思いました。(ちなみに、Aさんの理屈は、ネットでもよく見かけるようなものばかりでした。生物として云々~〜〜、子育てが云々~〜~、など。)

 

「理屈じゃない」というのは、私の中で大きな気づきでした。

 

端的に言うと、恐怖なんだ、と。

 

自分とは違う存在が、怖いんだ。

 

恐怖が根本にあって、理屈は後付けに過ぎないんだ、と。

 

どれだけ話したところで、Aさんとわかりあえることはないだろうと思いました。Aさんが言っていた理屈ひとつひとつに反論したところで、根本にある恐怖心がなくならない限り、溝は埋まらないように感じられたのです。

 

私は、Aさんと話すまではずっと「人と人は、話し合えばわかりあえるはずだ」と思っていましたし、「話し合い、みんながわかりあえる社会こそ、良い社会だ」「そういう社会を目指すべきだ」と思っていました。

 

でも、Aさんと話してからは、人と人は、基本的にわかりあえないものなんだ、と思うようになりました。だからわかりあうことを放棄するというのではなく、わかりあえない前提で問題を解決するためのアプローチを考えることも必要だと思うようになったということです。

 

そういう内面的な変化があった出来事でした。

 

たった1人の人から言われたことを一般化することはできませんが、「同性婚を認めない」人たちの中には、Aさんと同じように、根本に恐怖心がある人はきっと多くいるのでしょう。岸田氏の発言の背後にも、もしかしたら「恐怖心」があるのかもしれません。

 

仮にそうだとして、直接的に問題の解決に繋がるわけではないのですが、「相手を知る」ことも重要だと思い、書きました。

 

たとえわかりあえなくても、より良い社会を目指していきたいという思いは変わりません。(岸田氏もAさんも、おそらくこの点は同じでしょう。“より良い社会”の中身が違うだけで。)

 

わかりあえないことに絶望するのではなく、そもそも人間はわかりあえないものなんだ、という心持ちで、諦めることなく良い社会を目指していきたいと思います。(活動はできていませんが……。こういうブログでの発信も少しは意味があると信じて。)

 

ではまた!

 

きゅうり(矢野友理)